04 乙前(おとまえ)と出会えたこと     もくじへ戻る トップページへ戻る

しばらくして、父 鳥羽院(とばいん)が亡くなりました。
 なんだか世間が騒がしくなって嫌な事ばかり起きて 今様なんて言って
いられなくなってしまいました。

 保元二年のことです。 
 今様上手の歌い人 乙前の歌をずいぶん前から どうしても聞きたいと思
っていたと話しておりましたら、信西(しんせい)入道がこれを聞いていて、
 「いろいろ捜し求めてみたところ 乙前の子が私のところで仕えておりまし
た。」
 と言って、木工寮の三等官の清仲(きよなか)を呼んで 乙前の住む五条
に使いに出しました。

 乙前からの返事は
 「今様を歌わなくなって ずいぶん経ちますし もうみんな忘れてしまいまし
た。それに こんな年老いた姿では お恥ずかしいばかりでございます。」
 そう言って 来てくれないのです。
 それで 何度もしつこく催促したので、とうとう あまり断ったのでは礼儀に
外れて申しわけないと思ってくれた様で仕方なくではあるのですが 正月も
十日ほど過ぎた頃 やっと来てくれたのでした。

 ところが せっかく来たのに 引き戸の内に座ったままで出てこようとしな
いのです。
 それで人ばらいをして 高松殿の東側にある いつも私が居る部屋に行く
ことにしました。
 そこで いろいろと今様の話をし私が歌い聞かせると 乙前も歌ってくれた
のでそれを聞き こうしているうち 乙前は夜が明けるまで私の所に居たの
でした。
 私は、この夜の内に乙前と師弟になると約束したのです。

 それから後 私のところへ呼んで、部屋を与え 住まわせて 足柄から
はじめて大曲のうちの様々な歌い方、旧古柳、今様、物様、田歌にいたる
まで 私がまだ知らない歌は習い、前から歌っていた歌で 節が違っている
ものは 乙前の流儀一筋に改めて習いなどしておりましたところ、あれこれ
と いろいろな事を知りました。
 足柄、黒鳥子(くろとりこ)、伊地古、などの大曲の秘蔵の歌は どれも
それほど変わらないのですが、少しばかり変わってしまった節もありました。
 旧川(ふるかわ)については、乙前の歌い方が あこ丸とは思っていた以
上に変わっていました。
 延寿(えんじゅ)と言う歌い人の歌い方は あこ丸と同じ様だけれど、それ
も細かい部分は変わる事が多くあるのです。


・鳥羽院(とばいん)
  院の父 1156年保元元年没。
・‘世間が騒がしくなって 嫌な事ばかり起きて・・・‘
  元の文は
  「物騒がしき事ありて、あさましき事出でて、・・・」
  とあるのですが、これは1156年の保元の乱の事です。
  で、これって院が当事者なわけで‘世間が騒がしい‘なんて言ってる
  場合じゃないんですけれど、この後の元の文は
  「・・・今様沙汰も無かりしに、・・・」
  と、続くわけで 当時の人から見れば‘なに考えてんだよー‘以外なに
  ものでもないのでしょうね・・・。(~_~;)
  保元の乱は 血縁の者同士が敵味方に分かれて争い 敗者は斬刑に
  なっているわけで 院もここのところは‘あさましき事‘と言っているので
  す。
  まあ・・でも・・後白河院にしてみれば、天皇になったのも なんとなく
  めぐって来た感じだし それで‘崇徳院に恨まれちゃってもね困っちゃう
  よ・・・‘だろうし 保元の乱だって どうも実際にシキッテいたのは美福門
  院などであったようですし‘私が何かしたのか?‘といった感じであったの
  かもしれません。
  そう思うと お気の毒なのは崇徳院でございましょう・・・。
・保元二年
  1157年 院、天皇になって三年 三十一歳
・乙前(おとまえ)
  元の読み方は‘おとまへ‘
  傀儡子出身の今様歌い人(どこの出身かは?)で 院の師となり今様を
  伝授した人です。
  元の文 
  「・・・そのさまいといと見苦しく候」
  より この時すでに老女でありました。
  この後 十数年間 院の師として生涯を終えます。
  いよいよ登場といったところでございましょうか。
  出の所から なんとなくかっこよかったりするのでした。
・高松殿
  東三条殿のすぐ南にある屋敷で、保元の乱の時には内裏でありました。
・延寿(えんじゅ)
  今様を歌う女芸人の名






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