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久安元年八月二十二日、待賢門院がお亡くなりになりました。 火が消えて闇夜になってしまった心持がして、目の前が真っ暗になった 様で気分も晴れずにいたのですが、五十日ほど過ぎた頃に新院とお呼び した頃の兄・崇徳院(しゅとくいん)が、 「私の御所に同居するといい。」 と、言ってくださいました。 兄とあまり近くで気がひけたのですけれど 今様にメチャクチャ打ち込んで いたので その後からも同じ様に 夜ごと楽しく歌ったのでした。 鳥羽の離宮にいた時は 五十日ほども歌い明かしたことがあります。 ちょっと寄り集まって東三条殿から船に乗り 皆を集めて四十数日 朝日 が昇るまで夜ごと遊んだのです。 こんなに今様が好きなのに それというほどの師はなくて資賢(すけかた) や かねなどから歌を聞き取り少し習うことがあるくらいなのです。 また 一緒に練習した友達の歌を 知らないときはお互いに習い覚えして いるうちに なんとなくレパートリーがどんどん増えてきたので 古典的な 今様の足柄(あしがら)など 今様の中でも秘蔵の歌を知りたいと思うように なりました。 それで歌の上手なものがいると聞いて つてを求めて呼び 聞いてみた ところ 良く聞こえたので それより後はいつも呼び寄せて歌わせました。 その者に足柄を一つ二つ習ったのですが とても私に勝るほど歌を知って はいませんでした。 いち、めほそ、九郎、蔵人(くらうど)、禅師、千手(せんじゅ)、二郎など から 数多くの歌を聞いたのですけれど 中納言藤原家成(ふじわらのいえ なり)卿のところで仕えていた ささなみは五条の弟子と聞いたので家成卿 がお亡くなりになった後 使いに尋ねさせ連れてきて 三、四ヶ月ほど私の 元において歌わせました。 こんなふうに 歌を聞かない者はいないほど いろいろと呼び集めて聞い ていたのですが、 「初声(はつこえ)という女芸人の歌い人は とても歌上手ですよ。」 と、資賢(すけかた)が言うのです。 ほかの人たちもやはり歌上手だと言うので ぜひとも聞いてみたいと思っ たのですが どこにも縁がなくて困っておりましたところ 長男・二条院の 乳母であった女房の坊門(ぼうもん)殿が、 「私が、初声(はつこえ)を連れてまいりましょう。」 と言って、約束しました。 でも 私が兄の崇徳院と同居しているので坊門(ぼうもん)殿が遠慮して いると聞いて、押小路(おしこうじ)と京極大路(きょうごくおおじ)の交わる 辺りのお堂へ 坊門殿が初声(はつこえ)を連れて来る事にしたのです。 そこで 初声に夜どおし歌わせてそれを聞き 私もまたともに歌い 歌の ことをお互いに聞きあったりしました。 夜が明ける頃 初声は中御門東洞院(なかのみかどひがしのとういん) にある家成(いえなり)卿の宿所に住んでいたので、そこへ返したのでした。 まあ こんなふうに上達部(かんだちめ)や殿上人(てんじょうびと)は もちろん 京の男も女も それはもうあちこち 召使の女や雑役の女官 口江、神崎の遊女(あそび) 国々の傀儡子(くぐつ)、歌上手はもちろん 今様の歌い人で 私が聞き私が声を合わせて歌わぬ者など ほんとうに 数少ないのでした。 ある者がこんな事を言いました。 「青墓(あをはか)の傀儡子(くぐつ)であった さはのあこ丸(まろ)は 歌をたくさん知っている上手の歌い人で、近頃 京に上ったそうです。」 また この当時まだ六位であった式部省の次官補の定正(さだまさ)が 「藤原朝方(ふじわらのともかた)殿のお屋敷にいるそうです。」 と、言いました。 このように聞いたので、使いに尋ねさせ あこ丸を私の所へおいて 足柄(あしがら)を二つ三つ、伊地古(いちこ)、旧川(ふるかわ)、旧古柳 (ふるこやなぎ)、などを少しばかり習ったのですが、このころ 近衛院(この えいん)が お亡くなりになったので なんとなく習うのを止めてしっまたの でした。 |
・久安元年 1145年 院、数えで19歳 ・崇徳院(しゅとくいん) 院の同母兄 ・鳥羽の離宮 本文は‘鳥羽殿‘です。 今の京都市伏見区竹田および中島にあった広大な離宮で 白河院が 造営し鳥羽院が増修しました。 ・東三条殿 本文は‘東三条‘で 藤原氏の長者が伝領した屋敷です。 ・‘いち‘より‘二郎‘まで 女芸人の名 ・ささなみ 女芸人の名 ・五条 今様歌い人の乙前(おとまえ)のことで 五条大路に住んでいたので こう呼ばれていました。 ・初声(はつこゑ) 女芸人のことです。 ・二条院 院の長子で院の次の天皇です。 ・坊門(ぼうもん) 藤原信業(のぶなり)のむすめです。 ・上達部(かんだちめ) 大臣、大中納言、参議、三位以上の人のことです。 ・殿上人(てんじょうびと) 四位、五位の人、および六位の蔵人のことです。 ・遊女(あそび) 京より西方の水上交通の要所を本拠とした芸妓や今様の歌い人のこと です。 ・傀儡子(くぐつ) 京より東方の陸上交通の要所を本拠とした芸妓です。 もとは操り人形を使う芸人であったのですが のこころは今様の歌い人 のことをいいます。 ・さはのあこ丸(まろ) 前記の‘青墓(今の岐阜県大垣市内)‘というのは傀儡子の本拠の一つ で そこの出身の今様歌い人です。 鏡の山のあこ丸(あこまろ)とは別の歌い人です。 ・足柄(あしがら)から旧古柳(ふるこやなぎ)まで 今様の一種目です。 ・近衛院(このえいん) 院の異母弟 母は美福門院(びふくもんいん)です。 1155年没 崇徳→近衛→後白河の順番で即位しています。 ・ここのところのお話は 院が数えで十九歳から二十九歳の十年間の話 です。 生母待賢門院が亡くなったところから始まるのですが、五十日ほど暗い 気持ちでいたというのは、四十九日までは喪に服していたけれど その後 は また今様を歌っちゃったよ といったところでしょうか。 このころは こんなものかもしれないのですが、けっこうドライではありま す。 まあ、仏教の教えを行う事と今様を歌う事の根本が同じであると思ってい た院にとっては、母が亡くなって経を読むのと今様に明け暮れるのは同じ であったかも知れません・・・。 この後 院は兄の崇徳院の所で過ごす事になりますが ‘新院とお呼びし た頃の‘と言うのは この時まだ父の鳥羽上皇がいて崇徳院は新しく後か ら上皇になったという事です。 当時は天皇が若く即位していたので 上皇が一人ではない時があったの です。 新院と言うのは 上皇が二人以上いる時 後から上皇になった人を言うの です。 で、この時の天皇が近衛院(このえいん)です。 近衛院が没したところでここの話は終わらせたのですが、この時が 1155年で 実は院がこの後すぐに即位しているのです。 最後の所で‘なんとなく習うのを止めてしっまたのでした。‘と書きましたが 元の文でも 「何となくて止みにき。」 とあるのですが ‘なんとなく‘では なくて本当は‘即位して天皇になっちゃったから 今様なんて歌ってられな くなった‘と言う事だと思います。 あるいは 周りの状況で なるわけないと思っていた天皇に‘なんとなく なってしまったので 歌えない‘と言うことでしょうか・・・。 どちらにしても わたし的には こういうところ けっこう好きだったりするの でした。 なんと言うのでしょうか 期せずして何かが転がり込んでくるおかげで人生 が変わる・・・。 よくあるようだけれど あまりない チョッとドラマな感じです。 |