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その昔 私が十歳を少し過ぎた頃から今にいたるまで、今様が大好きで 途中で止めた事はありません。 のどかな春の日は 枝に咲き誇り庭に散り降る桜花を見 鶯の鳴く声 ほととぎすの語り合う声にも 今様の心と言うものを得、ものさびしい様な 秋の夜は 月を愛で 虫の声に哀れを感じ、夏の暑さも冬の寒さも そん な事は考えもせず、どんな季節でも どんな時でも 昼間は朝から晩まで 歌って過ごし 夜も一晩中歌い明かさない日はなかったのです。 夜が明けても蔀戸を開ける事もなく 朝日が昇るのも忘れ 日が高くなる のも気付かずに 歌う声は続くのでした。 こんなふうに、ほとんど 昼も夜もなく今様を歌い 月日を過ごして来た のでした。 時には 人を呼んで 舞、遊、歌うこともありました。 四、五人あるいは七、八人の男女で 今様だけを歌う時もあります。 側近の者たちで当番を決め、私が一日中この当番のものを稽古仲間 として 共に歌う時もあります。 また、私ひとりで今様を集めた書をひろげ 四季の今様 法文歌 早歌 にいたるまで 書いてあるものをみんな歌いつくした時もありました。 声が出なくなった事が三度あります。 二度はいつもの決まりどおり 当番の者と歌いあって 声が出なくなる まで歌ってしまいました。 あんまり無理をしたので 喉が腫れて湯水を飲むのも 凄く辛かったの だけれど なんとか工夫してまた歌いました。 また、七日 八日 十五日間 さらには百日間続けて歌の稽古などして とうとう千日続けての歌の稽古もしました。 昼の間は歌わない時もあるのですが 夜明けまで歌い続けない夜など ありません。 声よく 歌上手の 源資賢(みなもとのすけかた)や藤原季兼(ふじわら のすえかね)などと 今様について語り合ったり歌を聴いたり、また 鏡の山のあこ丸(あこまろ)が 主殿司(とのもりづかさ)になっていれば いつも呼んで来てその歌を聴き、神崎(かんざき)のかねが 待賢門院 (たいけんもんいん)に仕えれば かねが参上する時は 待賢門院にお願い して かねを呼び歌わせ聞いていましたら 待賢門院から 「あんまりじゃないの 時々は私の方でも なんで聞かなくてよいもの かね 私だって聞きたいのだから。」 と、言われてしまいましたが 一晩おきに かねをお貸ししましょうと言って いただけたので、待賢門院の御方へ かねが参上する夜は見張りを付けて 明け方帰るところを呼び 私がお借りする夜は まだ明るい頃から閉じ込め て歌わせ 聞き習って覚えた歌もあるのです。 明け方になって かねを返してやってからも私はまだ歌っていたので、 庭をはさんで向かいにある かねの部屋にも とどいたであろう 夜が明け てからも まだ続く鼓の音の絶えない事に かねは、 「いつになったら、お休みになるのかしら。」 と、呆れ返って言ったのでした。 こんなふうに、私は今様が大好きで 六十年の春と秋を過ごして来たので す。 |
・源資賢(みなもとのすけかた) 声楽の家の出で院の近臣の一人です。 ・藤原季兼(ふじわらのすえかね) 今様の名手敦家(あついえ)の孫です。 ・鏡の山のあこ丸(あこまろ) 今の滋賀県‘鏡の山‘にいた 以前は傀儡子(くぐつ)の歌い人です。 ・主殿司(とのもりづかさ) 宮中の清掃、燈火、薪炭などを管理した主殿寮の女官です。 ・神崎(かんざき)のかね 神崎という港町の遊女(あそび)です。 ・待賢門院(たいけんもんいん) 藤原璋子(しょうし) 鳥羽院の中宮で崇徳院と後白河院の生母です。 ・上記の話の頃は院はまだ十代で母の待賢門院の三条高倉邸に住んで おりました。 まだこの頃は誰も(たぶん本人も・・・)院が天皇になるとは思っていなかっ た頃で、話の感じからするとオモイッキリ今様にハマっているのが よく分 かります。 でも今の時代だって 自分の好きな事してる時って こんなじゃないです か? ・ここの話の初めの部分の「枝に咲き誇り庭に散り降る桜花を見」と言う所 元の文では「・・・散る花を見」と書いてあるのです。 ひょっとすると、この花は「桜」ではなくて「梅」かもしれません。 その後に「鶯」や「ほととぎす」が出てくるし 春は「梅」秋は「萩」であった 時代ではなかったかと思ったりもするのですが・・・。 間違っていたらすみません。 でも、私としては 散る花を見るのなら桜かなーと かってに思っていまし て 歌舞伎だって狂言だって花は桜花だし そんなことで上記のように 書きました。 |