| |
此本ハ、妙音院入道御本歟。 『この本は、妙音院入道(藤原師長)様の御本でありましょうか。』 而 法性寺禅定殿下御辺ニ、 年来御日記ニ相具テ被取置之由伝承者成。 『それから 法性寺禅定殿下(藤原兼実)の御身近にあります、 長年続く御日記「玉葉」に伴に書き記され伝わるものでございます。』 而 二条中将経定朝臣預置之間、 彼羽林又依為雅曲之弟子、 密々借寄テ書写之也。 『それから 二条中将経定朝臣が保管しており、 その二条中将経定朝臣は、また私の声楽の弟子であるため、 表立てないで借りてきてそれを書き写した物です。』 寛元四年八月二十一日送給之。同二十二日書写也。 『1246年8月21に送ってもらう。同じく22日書き写しました。』 此草子自入道中納言経資遺跡所尋取也。 『入道中納言経資が相続した この歌書より 抜き出したところでございます。』 康暦元年長月十七日書了。 此奥ノ御奥書者、伏見院宸筆也。 御所御本自当家文書出来之間、 当道雖不相応、猶依因縁、似老眼書之。 頗以枝葉歟。 花押 『1379年9月17日に書記します。 この(前に書かれている)奥書をお書きになられたのは 伏見院の御筆によるものでございます。 私の家の文書の中より伏見院の御本が出てきましたので、 この道の事についてはふさわしくないといえども、 縁のあることなので 変わらず頼りにして 老眼でこれを書きました。 いささか余計なことでありましょうか。』 花押(署名) |
・妙音院入道 藤原師長の事です。 「27 続・新たな弟子」の中に後白河院より今様を習った事が書かれています。 太政大臣と高位にあり また、今様を琵琶の楽譜で書き表そうとしていたと書かれていることから音楽の才に秀でた人物でした。 出家の後、妙音院と号しています。 ・「歟」 この字は「か」と読むようで 文末に付き疑問や反語として使われます。 ここでは‘〜ありましょうか‘としてみました。 ・「而」 しかして→そして・それから ・法性寺禅定殿下 藤原(九条)兼実(かねざね)の事だそうです。 新古今和歌集では入道前関白太政大臣と呼ばれているそうです。 ・日記「玉葉」 藤原(九条)兼実が1164年から約40年間書き記した日記です。 ・二条中将経定朝臣 水無瀬親定の子だそうです。 ・羽林 近衛府の唐名。また、近衛の中将・少将の唐名。 上記の場合は、近衛の中将・少将の唐名という事で 二条中将経定朝臣をさします。 ・雅曲 今様なども含めて広範囲での謡いということで‘声楽‘としました。 ・「八月二十一日」 日付はそのまま訳しておりますので陰暦の8月は現在の新暦では9月頃にあたります。 ・「此本ハ・・・」〜「・・・同二十二日書写也。」 ここまでが第一の奥書になり 名の記載はございませんが、書記したのは綾小路家、有資だそうです。 有資は源資賢の孫にあたります。 源資賢については「口伝集・巻十」に頻出しており 「02 今様に心を注ぐ日々を過ごすこと」の注釈に既出しています。 下記URL参考 宇多源氏家系 http://www.geocities.jp/okugesan_com/uda.htm 綾小路家家系 http://www.geocities.jp/okugesan_com/urinke.html#ayanokouji ・経資 上記の源(綾小路)有資の子です。 経資が父・有資より譲り受けた歌書の中に今様の口伝があり これを書き写したということだと思います。 ・「長月十七日」 陰暦で9月と訳しましたので新暦では10月頃にあたります。 ・「此奥ノ御奥書者、伏見院宸筆也。」 伏見院の筆による奥書というのは前出の第二の奥書「此草子自入道中納言経資遺跡所尋取也。」のことを指しています。 ですので 第二の奥書を書いたのは伏見院ということになります。 ・「御所御本自・・・」〜「・・・頗以枝葉歟。」 ここまでが第三の奥書になります。 伏見院は1265年〜1317年存命でしたので 康暦元年長月十七日(1379年9月17日)と書いてあるのは第三の奥書が書かれた時期だと思われます。 第三の奥書を書記した人物の名は記載されていないのですが 伏見宮栄仁(よしひと)親王だと推定されるそうです。 |