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1127年 鳥羽上皇(とばじょうこう)の第4皇子として誕生 名前は雅仁(まさひと)親王 母は待賢門院藤原璋子(たいけんもんいんふじわらのしょうし) ・若い頃の 後白河院は皇位継承には無縁で気楽でありまして 十代の頃から今様にハマって誰も天皇になるなんて思ってい なっかたようです 1155年 異母弟の近衛天皇(このえてんのう)が崩御 近衛天皇の母 美福門院藤原得子(びふくもんいんふじわらの とくし)などの意向で 雅仁親王は数え年29歳で即位 77代天皇 後白河天皇となる ・美福門院は崇徳上皇のことをあまりよく思っていなかったようで その為に崇徳上皇の皇子の即位がボツになったのでした 後白河院にしてみれば院政時代の天皇としては高齢の天皇に なったわけです 1156年 鳥羽院没 兄の崇徳上皇(すとくじょうこう)と後白河天皇が対立 保元の乱(ほげんのらん)が起こる ↓ 天皇の地位争いに周りが巻き込まれた乱 崇徳上皇 後白河天皇 藤原頼長 VS 藤原忠通 源 為義 源 義朝 平 忠正 平 清盛 後白河天皇の勝ち 崇徳上皇は讃岐(さぬき)へ流される 1157年 乙前を呼んで師事し今様の練習に励む ・こういう時勢に今様の練習などに励んでいていいのかと思うわけ です・・・ この当時のとても賢い学者の信西(しんせい)入道と言う人が 後白河院を 「当今(とうぎん)、和漢ノ間、比類少キ暗主ナリ」 (後白河院は、ここいらへんでは、比べようもないスットコドッコイの 王でございます) と言っているのだそうです(T_T) 1158年 第一皇子守仁(もりひと)親王(78代二条天皇)に譲位 後白河上皇となり院政を始める 以後、35年間没するまで 二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽、 の五代にわたって院政を執り主権者として武家勢力に対抗した ・この35年は長かったのか短かったのか 波乱万丈であった様に 思うのですが・・・ でも、この間も今様は忘れてはいないのでした すごい! 1159年 平治の乱(へいじのらん)が起こる ↓ 源氏と平氏の争いに周りが巻き込まれた乱 藤原信頼 VS 藤原道憲 源 義朝 平 清盛 平氏の勝ち 平氏が権力を握り全盛をきわめる 1169年 出家して後白河法皇になる 後白河院43歳の時 口伝集巻九まで完成 ・上皇となってから約10年今様人生だったのでしょうか・・・ 1177年 鹿ヶ谷事件(ししがたにじけん)が起こる 後白河法皇が貴族たちと 平清盛を倒そうとするも失敗 ・ここから後15年の間 数年おき短いときは1年で何か事が起きて いるのです なんと言うか、転がる様な時代の流れです この流れの中で院の‘公‘の面はやはりかなりハードではなかった かと思います 1179年 平清盛によって鳥羽殿に幽閉される 院政中断 1180年 後白河法皇が第2皇子の以仁王(もちひとおう)を通して 平清盛の追討令を出す 以仁王と源頼政(みなもとのよりまさ)が挙兵するも平氏に 敗れる 源頼朝が挙兵 1181年 平清盛没 後白河法皇院政再開 ・院政を中断してから2年 ひょっとすると生涯の中で一番悔しかった 時期なのではないでしょうか? だって、これまで かなりやりたい放題の人生だったみたいだし・・・ この時 院政を再開した院の気持ちはどんなだったのかなー 1183年 木曽義仲が平氏軍を破り入洛 1185年 平氏が壇ノ浦で滅亡 源頼朝が武士の力を強くしていく 後白河法皇が源義経に頼朝を討つようにしかけるが失敗 1189年 義経が平泉で討たれる 1190年 頼朝は上洛して後白河法皇と対面し征夷大将軍を望むが 後白河法皇にボツにされる ・1180年からの10年 院は平氏と源氏の争いを演出してきたので した 権力を有するのは天皇であると 誰よりも強く思っていたのかもしれ ません 平安時代の平安時代たる貴族の時代を守りたっかた 時の流れの 中で 最後まで踏みとどまろうと頑張ったように思われるのです 1192年 後白河法皇没 66歳でありました 頼朝 征夷大将軍になる そして・・・貴族の時代が終わり武士の時代が鎌倉から始まるの でした ・頼朝が後白河院を「日本一の大天狗」と言ったのだそうで 頼朝は院を日本一嫌な奴と思ったのでしょうか、それとも妖怪の ようにツカメナイ奴と思ったのでしょうか・・・ ‘今様大好き人間‘後白河院の66年と言うのは この時代めちゃくちゃ ドラマチックであるように思うのですが・・・。 今の時代なら66年という年月はそんなに長い時間ではありません。 その時間の中で 時代の流れに逆らうように政治を動かし 後の世の人 に ‘これはちょっとスゴイゾ‘ と感動する様な歌詞集を残す。 たいしたエネルギーでございましょう・・・? また、院は「千載和歌集」勅撰を藤原俊成に命じたり、「年中行事絵巻」 を描かせたり、文学面 美術面で著しい働きがあります。 さらに、仏教信仰として数多くの熊野詣や 神社への参詣、京都法住寺 御所には 新日吉(いまひえ)・新熊野(いまくまの)両社の勧請(かんじょう) があり、清盛の造営による蓮華王院(れんげおういん:三十三間堂)の 創建、出家後の受戒などをしております。 こんな激動の時代であったからこそ信仰が篤く、院にとっては信仰と根底 を同じくする今様の歌いにハマったのではないでしょうか。 今様で仏教賛歌を歌うことが 仏教を行う事であると信じていたのです から・・・。 ‘公‘と‘私‘が共にこんなにエネルギーのある後白河院と言う人物は やっぱり、興味ある対象ではあるのでした。 もし、タイムマシンがあったら こっそり見に行ってみたい人物の一人で あります。 ドラえもーん!! |