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| 私は石清水八幡宮に参詣いたしまして 十日間こちらに籠りました。 この間にはじめて 十日で千部の経を読みました。 九月二十日より籠りはじめましたが 二十五日か二十六日ころ経を読み 終えてから 今様を神仏の御前にて夜どおし歌いました。 真夜中になりました頃のことでございます。 足を衣で包んだ女が 本殿回廊正面の門の所におりました親盛(ちかも り)のもとへ寄ってまいりまして 親盛の衣服を後ろから引っぱるのです。 女は何か親盛に申したのですが 親盛は‘何を言っているのだ。‘という 様子で話を聞こうといたしません。 女はまた寄ってきて 幾度も同じことをします。 そこで 親盛が後ろを振り返って見れば 勧学院(かんがくいん)の台所 仕事をする女でありました。 女が言う事を聞いてみると この様なことでした。 「これはわたくしが夢に見たことでございます。こちらの階隠し(はしかく し)の柱のあたりで 十二・三歳ほどに見える美しい稚児が 階隠しの右と 左に ひとりは薄青色の芝のごとき織りの腋開け(わきあけ)の袍(ほう)を お召しになり白馬にお乗りになっております。いま一人のお方は 白き薄 織りの単と思われるのですけれど これを下に着込めて見えるようにお召 しになって 斑毛の馬にお乗りになっております。 お二人が階隠しの右と 左にそれぞれお立ちになられて 後白河院様の御歌を お聞きになられて いる様に見えたのでございます。ここで ふっと眼がさめましたところ ・・・峰の嵐のはげしさに 木々の木の葉も散り果てて・・・ と、後白河院様がこの今様を御歌いの最中でございましたので 右の後ろ の辺りにに座らさせていただきました。」 と、伝え知らせてきたことを 親盛(ちかもり)が私のところへ参り来るな り話したのでした。 親盛(ちかもり)は 「この女は夢の中で 八幡の若宮が院の御歌いをお聞きになっておられ たのだと思われたようでございます。」 と この様に言っておりました。 さて、次の夜 私は若宮社に参詣し今様の歌会を夜どおしいたしました 後 乱舞(らんぶ)・猿楽(さるがく)・白拍子(しらびょうし)などなど・・・様々 に心行くまでいたしたのでした。 一一七八年九月二十四日のことでございます。 |
・石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう) 京都府八幡市八幡高坊 祭神 本殿中:誉田別尊ほんだわけのみこと(応神天皇おうじんてんのう) 本殿西:比淘蜷_ひめおおかみ(宗像三女神:8話厳島参詣参) 本殿東:神功皇后じんぐうこうごう(息長帯比賣命おきながたらしひめのみこと) 八幡神というのは応神天皇のことなのですけれど 応神天皇を主神と した上記 三神を八幡神または八幡三神といいます。 八幡神の本地垂迹説による本地は釈迦でございます。 石清水八幡宮は京都八幡の男山に広がる大きな神宮です。 八五九年 奈良の大安寺の僧で行教という人が 今の大分県にある 宇佐神宮で神託を受け京都大山崎に宇佐八幡神を勧請したのが始 まりで 同じ年 清和天皇の命で木土寮の橘良基が 男山に六宇の 社殿を造り正式に八幡神をお迎えしました。 石清水八幡宮は上記三神をお祭りする神社であるのですけれど その始まりが大安寺の僧であり また この頃は神仏習合の思想で ありましたので 大きな社域の周りに護国寺や多くの僧坊がありました。 男山は京の南西・裏鬼門にあたり また 交通の要所でもあったので ここの守りとなります。 男山の北には淀川が流れ熊野参詣で淀川経由の時 石清水八幡宮 に参詣した後ここから淀川を下って行くこともあったようです。 皇室、武家どちらからも信仰をあつめたのでした。 ・‘今様を神仏の御前にて‘ 神仏習合の考え方から‘神仏‘としました。 ・本殿回廊正面の門 男山南側から三ノ鳥居をくぐり進んで行くと正面の回廊中央に南総門 があります。 そこを通ってさらに進むと 周りを回廊がぐるっと取り囲んだ八幡造り の本殿がございます。 その本殿正面・回廊中央にある大きな門のことだと思われます。 一遍上人絵伝などを見つけたのですけれど 本殿とその周りの回廊 の様子は今とあまり変わってはいないようです。 ・勧学院(かんがくいん) @藤原氏の子弟の教育ために大学寮近くに 藤原冬嗣(ふゆつぐ) が建てた寄宿施設のこと。 A平安時代以降 大寺院で設けた僧侶の教育機関。 この話の場合はAの方が合っているような気がいたします。 ・階隠し(はしかくし) 神社本殿や寝殿造りの建物の正面入口の階段上に 柱を二本立て て階段をおおうように突き出して葺き下ろしたひさしの事です。 階段を雨などから保護しました。 ・腋開け(わきあけ)の袍(ほう) ‘腋開け‘は両脇を縫い合わせていない衣服のことで 闕腋の袍(け ってきのほう)のことをいいます。 闕腋の袍というのは 両脇の袖付けの下を縫い合わせていなくて 無襴(襴は袍などの裾に足さばきのよいように付けた横ぎれのことで この襴の付いていない服のこと)の動きやすい衣服です。 武官や幼年の束帯として用いました。 ・‘・・・峰の嵐のはげしさに 木々の木の葉も散り果てて・・・‘ 「古今目録抄」より第三句以下を付け加えると次のようになります。 ・・・峰の嵐のはげしさに 木々の木の葉も散り果てて 清商(せいしょう)秋の水の面に 紅葉の錦の波ぞ立つ・・・ (ただし 第一句小異:峰の嵐のけはしさに) ・・・峰の嵐があまりに激しかったので 木々の木の葉もすっかり散ってしまいました 清らかな秋の日の水面に 散り落ちた紅葉の葉が錦の波を立てております・・・ ・八幡の若宮 石清水八幡宮の若宮は本宮主神応神天皇の皇子仁徳天皇をお祭り しています。 ・若宮社 石清水八幡宮の摂社若宮社のことです。 ・乱舞(らんぶ) 今様の歌いなどにあわせて 即興的に舞う舞です。 ・猿楽(さるがく) こっけいな物まね芸で やはり即興的に演じられました。 ・白拍子(しらびょうし) 舞姫が 水干や直垂 立烏帽子 刀などで男装して今様などを歌い ながら舞う男舞といわれる舞いです。 ・一一七八年 治承(ぢしょう)二年 後白河院五十二歳です。 ・九月二十四日 前述で二十五・六日に今様を夜通し歌ったとありまして 若宮の話し はこのどちらかの日 次の夜に若宮社へ行ったのは この後だと思 いますので 最後に‘二十四日のことだ‘と書いてあるのは 日にち が前後してしまいます。 ですが 梁塵秘抄新潮日本古典集成には二十四日 新訂梁塵秘抄 には四日と書いてあるのです。(ここも各々書いてある日にちが違う のですけれど・・・) そういうことなので たぶん何度か写し書きされているうちに写し間違 えたのではないかと思います。 ・今回はあまり長い話ではなかったのですけれど 参考にしている本 に書いてある元の文が少しずつ異なっていて それぞれの解釈に よるのでしょうが 素人の私としては それをどのようにまとめたもの か まよいました。 今までにも増して かなりこじつけたところが多いのですけれど お許 しくださいませ・・・。 それにしても 後白河院が今様を歌うとどうしてこんなに怪しげなこと が多くおこるのでしょうね・・・。 だいたい若宮の夢を見たという勧学院の女が そもそも怪しかったり いたします。 今様を歌うのは後白河院ばかりではないのでしょうから やはり今様 ではなくて 後白河院になにやら常の者とは違ったものが御ありで あったのではないかと思ってしまうのでした。 |