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安芸(あき)の厳島神社に建春門院(けんしゅんもんいん)と共に参詣 したことがありました。 三月(やよい)の十六日に京を出て 同じ月の二十六日に厳島神社に 参り着きました。 厳島の その神殿の様子といえば、神殿の周りの回廊は長く続いていて 潮が満ちてくると回廊のすぐ下まで海水で満たされ それが入り江にむか って波頭を白くたてて流れていくのです。 対岸の山に眼をむければ 木々これみな青みのある濃い緑・青緑(せい りょく)のごとくでございます。 山に幾重にも積み重なる岩石の岩々、これが水際に白く高くそびえたっ ているのです。 そうして白い波が 時々この岩肌にうちよせるのです。 まことに すばらしき光景でございます。 私が予想していたよりも 趣が深く見えたのでした。 安芸の国、厳島神社の内侍(ないし)で 黒(くろ)と釈迦という二人の 巫女がおります。 唐装束(からしょうぞく)をまとい垂髪(すいはつ)の頭上で結んだ髪に 釵子(さいし)を挿した様子で舞をいたしました。 舞は 五常楽(ごじょうらく)と狛鉾(こまぼこ)です。 歌舞音曲を奏する菩薩の袖振る舞も このようであったのだろうと思わ れるほど美しいものでありました。 公卿、殿上人、楽人(がくにん)、太政入道・清盛、さらにその供の者が まだ座を立たずにおりましたところへ‘正真正銘・本当の巫女‘であると申 して老女を連れた者が来ました。 巫女は私と向かい合って座り この様な事を言いました。 「‘我に願う事は 必ず叶うであろう。‘と神仏は申されております。 極楽往生を願うことを 神仏はしみじみと慈愛深くお思いになっておられ るのです。神仏は‘今様を聞きたいものだ‘と申されております。」 あまり表立っていて気恥ずかしく しかも昼の明るい時分の事でもあり 今様を歌い出すなどということもなく居りましたところ さらにまた何度も 巫女が‘今様を聞きたい。‘と言うので 私は資賢(すけかた)を呼んで 今様を歌うように言いました。 ところが資賢は緊張して硬くなってしまいました。 それでもなお 巫女は‘今様を聞きたい‘と言うので 仕方なく私が 今様を歌いました。 ・・・四大声聞(しだいしゃうもん) いかばかり 喜び 身よりも余るらん 我らは後世(ごせ)のほとけぞと たしかに聞きつる今日なれば・・・ (・・・四大弟子の方達は どれほどの 身に余る喜びを得た事であろうか 私たち四人は後世には仏と成ると 確かに釈尊より言われた言葉を聞いた今日なのだから・・・) 歌い出してから‘この私の歌いに付けて歌うように‘と言ったのですが 資賢がその場に居なかったので 私の歌いに付けて歌うこともなく 二反 歌って終わりにいたしました。 私は心の内で極楽往生だけを 他の事を思うことなく 神仏にお願い 申し上げておりました。 その私の心の内を この巫女が言い出したりしたものだから 信仰心が わき起こって 容易に涙を抑えることができませんでした。 太政入道・清盛が以前より 「厳島の御神は極楽往生を祈り願うことを お喜びになります。」 と、このような事を申されておりました。 しかし太政入道・清盛がこの様な話しをしていなくても もともと私は現世 の事はそれほど神仏にお願いしてはおりませんでしたし そのうえ巫女が 告げた先ほどの神意と太政入道・清盛が話した事と同じであったので 私は極楽往生を願う思いを今様に託して歌ったのでした。 |
・安芸(あき) 旧国名で‘安芸の国‘今の広島県西半分・竹原市あたりから廿日市市 (はつかいちし)あたりになります。 ・厳島神社 現在の広島県宮島町・宮島(一島一町)の北側・洲浜に対岸大野町 の方向に宮島の弥山(みせん)を背に社殿が立ち並んでいます。 祭神は : 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) 田心姫命(たごりひめのみこと) 湍津姫命(たぎつひめのみこと) 上記、三女神は福岡県宗像にある宗像大社(むなかたたいしゃ)の 祭神と同じです。 この三女神は海上交通の守り神として有名だそうで、この厳島神社 も海上安全・商売繁盛の守り神として信仰を集めています。 今の様な外観になったのは清盛以降ですが、古来より島全体が信仰の 対象とされていて島名も元は厳島と言って‘神をいつきまつる島‘という 意味があるのだそうです。 先に書いた様に 社殿が島中央北よりの弥山(みせん)を背に洲浜に立 ち並ぶのも 弥山が昔から霊山であり 島そのものを信仰の対象とした からなのでした。 はじめの社殿は五九三年(推古天皇即位元年)、‘安芸の国を管理して いた‘とも‘安芸の国の豪族‘とも‘地元の人‘ともいわれる佐伯鞍職 (さえきのくらもと)の創建と伝えられています。 佐伯鞍職はこの後 厳島神社の神主として 管理にあたることとなり ます。 ‘佐伯‘というのは地図を見ると以前は‘佐伯郡‘として北は湯来町、 南は江田島・大柿町と 廿日市市を真中辺りにした範囲にその名を 見る事ができるので この辺りに勢力を持っていた豪族ではないか と思えます。 ‘遠国に隠れもない大名でござる。‘といったところでしょうか・・・。 で、創建にまつわる話は これはもう神話の域でございます。 釣りをしていた佐伯鞍職(さえきのくらもと)に 祭神の市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと)が厳島に社殿を建てるように言ったので ささの枝をくわえたカラスに導かれ社殿を建立したのだそうです。 しかしながら先にも書きましたが厳島神社の際神・三女神は宗像大社の 祭神と同じなので こちらから勧請されたのではないかと考えられてい ます。 厳島神社は八五九年には神階従四位上を授けられ、九四〇年 に正四位下となり 名神大社として名を残しているのだそうですが 今日に見られるような回廊造りの社殿になったのは 一一四六年 安芸国守となった平清盛の命で当時の神主・佐伯景弘(さえきかげひ ろ)によるもので 完成は一一六八年頃とされています。 ちなみに 島全体が信仰の対象であったので 内侍(ないし)以外の人 が移り住むようになったのは一四世紀末(室町時代)になってからのこと です。 で、この頃からだんだんと、専業の宿屋ができたり 祭礼の時に市が開 かれるようになって 一般の参詣人が増えこれにともない宮島遊郭や 宮島歌舞伎が発生したのだそうで この様なことから今では厳島神社は 海上安全さらに商売繁盛の守り神となっています。 ・建春門院(けんしゅんもんいん) 一一四二年〜一一七六年 平時信の娘・滋子(しげこ)のことで 平清盛の妻・時子の妹です。 はじめは小弁と称し後白河院の女房であったのですが 院の特別な 寵愛を得て高倉帝を出産し女御となり高倉帝の即位にともなって皇太后 そして院号を受け建春門院となります。 平家の繁栄の基となるのですが 三五歳で没しております。 ・‘三月(やよい)の十六日に京を出て‘ 一一七四年のことです。 ・‘厳島の その神殿の様子といえば‘ 厳島神社の本社殿は平安時代の貴族住宅様式であった寝殿造りを基 に造られたものといわれていて 本殿の前に幣殿・拝殿・祓殿と大鳥居 に向かって順に連なるような形式になっています。 さらには 本社前面に平舞台、その中央に高舞台があります。 この社殿が海上にあるので各社殿・摂社客(せっしゃまろうど)神社など が回廊でつながっています。 これら本社・客神社は 様式が平安時代末期と考えられる部分があり 平清盛が造営した社殿が 後に大修理を加えられながら今にいたって いると考えられております。 ・‘神殿の周りの回廊は長く続いていて‘ 現在ある回廊は室町末期から桃山時代(一五・六世紀)に改築された もので東西二本あります。 東の回廊:折れ曲がりがあり、延長約八二メートル。 一重、切妻造り、屋根ひわだ葺き。 西の回廊:折れ曲がりがあり、延長約一一二.八メートル。 一重、東端切妻造り、西端唐破風造り、屋根ひわだ葺き。 ・‘木々これみな青みのある濃い緑・青緑(せいりょく)のごとくで ございます。‘ 元の文は ‘木々みな青みわたりて緑なり‘ です。 なんというのか、このままでいいという感じで 特別訳さない方がいいと いったふうで 短いけれどすごく美しい絵が頭の中に浮かびます。 私は掛け軸とか襖絵とか屏風絵とかの 青緑山水の感じでイメージした のでそれをそのまま書いたのですけれど、時期は春 素直に見れば 対岸は今の宮島口辺りでしょうから正面に朱塗りの大鳥居 白い波頭と 潮の香り そこに‘青みわたりて緑なり‘の山々・・・。 ここは元の文を少し書いておきます。とてもきれいな感じです。 「宝殿のさま、回廊ながく続きたるに、潮さしては回廊の下まで水 たたへ、入海(いりうみ)の対(むか)へに浪白くたちて流れたる。 対(むか)への山を見れば、木々みな青みわたりて緑なり。山に 畳める岩石の石、水際に白くしてそばだてり。白き浪、時々うちかく る、めでたきこと限りなし。」 ・厳島神社の内侍(ないし) 厳島神社では 巫女のことを‘内侍(ないし)‘と呼びました。 ・黒(くろ)と釈迦 ともに厳島神社の内侍の名前です。 二人とも美しいことで有名であったのだそうです。 ・‘唐装束(からしょうぞく)をまとい垂髪(すいはつ)の頭上で結んだ髪に 釵子(さいし)を挿した様子で舞をいたしました。 舞は 五常楽(ごじょうらく)と狛鉾(こまぼこ)です。‘ ここは少し順番をかえて注釈を書きます。 雅楽の話になります。 :五常楽(ごじょうらく) 雅楽の管絃曲・舞楽曲で別名で礼儀楽ともいいます。 左方の平調(ひょうじょう)の新楽です。 舞は文の舞で四人舞、蛮絵装束(ばんえしょうぞく)で舞います。 中国・唐の太宗皇帝(たいそう:六二七〜六四九)作で、仁・義・礼・ 智・信の五常(ごじょう)を 宮・商・角・微・羽の五音にはめて作った のだそうです。 舞楽では 序・詠・破・急と舞われます。 雅楽:日本古来の歌舞と平安時代初期までに大陸・アジア諸国 から伝わった舞楽を統合した歌舞です。 管絃曲:雅楽で舞をともなわない楽器のみの演奏曲です。 舞楽曲:上記に対して舞のある演奏曲です。 五常楽(ごじょうらく)は上記のどちらでも奏されます。 左方:中国(唐)・ベトナム(林邑りんゆう)・インド(天竺)などから伝 わった音楽を基にした唐楽です。 左方の唐楽は管絃と舞楽のどちらの曲もあります。 五常楽の舞は左方の演奏で舞うので左方舞(左舞)です。 左方舞(左舞)は赤色を基調とした装束で舞い 必ず左足 より進退します。 ちなみに 左方に対して右方があり これは高麗楽(こまがく) といい高麗・新羅・百済・高句麗(朝鮮半島)の楽曲をもとに 日本で作られた曲です。こちらは舞楽だけで その舞を右方舞 といいます。 右方舞は青色を基調とした装束で舞 必ず右足より進退 します。 平調:上記・唐楽において用いられる六つの調子‘六調子(りくちょ うし)のなかのひとつです。 六調子というのは唐楽で用いる六つの旋法のことです。 旋法というのは主音の位置や音程関係によって分類した 音列のことなので 六調子というのはそれぞれ異なる主音 を持つ六つの音列ということになり 平調はその中のひとつ です。 洋楽のホ音(ミの音)にあたる音を主音とする音列です。 ほかの五つはそれぞれ 太食(たいしき)調・壱越(いちこつ) 調・双調・黄鐘(おうしき)調・盤渉(ばんしき)調です。 雅楽では’時の調子‘という考え方があり 音階により奏され た時の感じが四季をあらわすことから 四季におうじた一定 の調子が決められています。 平調は秋の調子とされています。 春が双調、夏が黄鐘(おうしき)調、冬が盤渉(ばんしき)調 で これらにあわせて元の曲からほかの曲へ移調してその 季節にあった調子で奏されました。 これを‘渡し物‘というのだそうですが 旋律が変わるので 別の曲の様に感じるのだそうです。 ちなみに 上記厳島参詣は春なので 双調に移調されて いたのでしょうか・・・? 新楽:唐楽の楽曲分類の中の一つで 中国での成立時期・日本 への伝来時期・曲の形式のなどで 新旧が決まるそうなの ですが いろいろあって基準があいまいなのだそうです。 羯鼓(かっこ:鼓を横にして左右をばちでたたくような感じの 打楽器)を用いるのが特徴だそうです。 文の舞:文舞とも書きます。 ‘平舞(ひらまい)‘ともよばれ 文徳(学問を修めることで そなわる人格)をたたえる ゆったりとした雅な舞で 襲装 束(かさねしょうぞく)や蛮絵装束(ばんえしょうぞく)で四人 または六人で舞われます。 蛮絵装束(ばんえしょうぞく): 左右の平舞(文舞)に用いられます。 冠、袍(ほう)、下襲(したがさね)、金帯(きんたい:左舞)、 銀帯(ぎんたい:右舞)、表袴(うえのはかま)、赤大口(あか のおおくち)、絲鞋(しかい)、笏(しゃく)、からなり 袍(ほう) には向かい合う唐獅子(蛮絵)の刺繍があります。 (冠:無紋冠というもので映画の陰陽師で道尊と戦う博雅 がかぶっていた冠です。m(__)m・・・・・。 冠の纓(えい)を巻いて 横の頬にあたる所に馬の毛で できたブラシの様な おいかけ を付けます。 この冠の前面にちょっとした季節の花などを插頭(かざし) にして飾ります。 袍(ほう):蛮絵装束では唐獅子(蛮絵)の刺繍がしてあり 見た目に一番上に着ます。 下襲(したがさね):袍の下に着るものです。 金帯・銀帯:一番上から袍を腰で締めるものです。 表袴:見た目に上(外側)に着る袴です。足首で裾を締めな いのでダボダボズボンの感じです。 赤大口:赤色で表袴の下(内側)に着ます。ズボン下といっ た感じでしょうか・・・。 絲鞋:履物で足袋の上に履きます。 笏:おじゃる丸が持っているあのシャクです。帯に挟んで おきます。) 仁・義・礼・智・信の五常(ごじょう): 儒教で人が常に守るべきとされる五つの道・道徳の事です。 仁:思いやり、いつくしみの心。 義:人としての行いが正しい事。 礼:人間関係や秩序を維持するための倫理的規範。 智:物の道理を知り正しい判断を下す事。 信:あざむかない、いつわらない、まこと、誠実の事。 宮・商・角・微・羽の五音: ‘ごいん‘‘ごせい‘‘ごおん‘などと読みます。 中国や日本の音楽の用語で音階とか旋法の基本となる五つ の音のことです。 低い音から順に 宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・微(ち) ・羽(う)といい基本形は洋楽のドレミソラと同様の音程関係 になるそうです。 序・詠・破・急: 唐楽で舞をともなう舞楽では序・詠・破・急と舞われます。 その中で管絃で奏されるのは破や急の曲です。 詠のところは舞う人が詠詩を唱えるので雅楽の曲としては 序・破・急が雅楽曲の三楽章となり 雅楽の楽曲の楽章名 と言う事になります。 この序・破・急の三楽章がそろっているものを一具(いちぐ) といいます。 一具(いちぐ)・三楽章がそろって伝えられている曲は少ない のだそうです。 序(じょ):第一章の事で無拍節で奏するところ。 (曲の途中から拍節をともなって奏される曲もありま す。) 詠(えい):舞う人が詠詩を唱えたのだそうですが唱法が 伝わっていないのだそうです。 破(は):第二章です。 管絃ではここが‘急‘と共に演奏されるところです。 拍節があり長大な曲が多いそうです。 急(きゅう):第三章です。 最終楽章で拍節は破に比べ速くて 曲は短い ものが多いそうです。 (拍節:一定の拍・ビートの周期的な反復で 小節とこれより 大きい単位のものも含めていいます。) :狛鉾(こまぼこ) 雅楽の舞踊曲で花釣楽(かちょうらく)とか棹持舞ともいいます。 右方の壱越(いちこつ)調の曲です。 舞は文の舞・平舞(ひらまい)で四人舞または二人舞、別様装束の 裲襠(りょうとう)装束で舞います。 高麗(こうらい)から船で来貢するときの様子を表した曲で 日本で 作られた舞曲だそうです。 五色に彩色した船棹(ふなざお)で船を漕ぐ姿を舞いにしたのだそうで 棹を肩にかついだり床に打ち下ろしたりして棹を操る様子が舞の中に 見る事ができるのだそうです。 番舞(つがいまい)という左方と右方の舞を組み合わせての舞で 左方 の‘太平楽‘や‘打球楽‘と番えられます。 右方:高麗楽(こまがく)のことです。 高麗楽は古代の朝鮮半島にあった新羅・百済・高句麗の 音楽に昔の中国東北地方の舞楽が加えられ日本で作られ た楽曲で 高麗壱越(いちこつ)調・高麗平調・高麗双調の 三調子があります。 舞楽のみで篳篥・高麗笛・三ノ鼓・太鼓・鉦鼓(しょうこ)で 奏されます。 右方の曲による舞と、唐楽(左方)の三曲(陪臚:ばいろ、 還城楽:げんじょうらく、抜頭:ばとう)による舞を右舞(うまい・ うのまい)といいます。 右舞の装束は青色を基調として 必ず右足から進退します。 狛鉾(こまぼこ)は右方の曲で舞うので右舞です。 右方の壱越(いちこつ)調: 高麗壱越(こまいちこつ)調のことです。 左方の六調子の事はアチコチ書いてあるのですが 右方の 三調子についてはあまり書いてあるものが見つけられなくて とりあえず分かったのが下記のことです。 ・高麗壱越調(こまいちこつちょう) 洋楽のホ音(ミの音)にあたる音を主音とする音列です。 (上記唐楽の平調と同じ音を主音とする音列ですが 同じ音列であるのかは すみません 私には?で ございます・・・。) ・高麗平調(こまひょうちょう) 洋楽の半音高いヘ音(♯ファの音)にあたる音を主音とする 音列です。 ・高麗双調(こまそうちょう) 洋楽のイ音(ラの音)にあたる音を主音とする音列です。 別様装束の裲襠(りょうとう)装束: 別様装束(べつようしょうぞく)とは一曲一装束に限る装束の ことなのですが 裲襠(りょうとう)装束を別様装束として書いて ある本と共通の装束として書いてある本があるのです。 で、裲襠にもいくつかの様式がある様なので この意味で狛鉾 の裲襠装束も別様装束として考えるのかと思います。 ・別様装束(べつようしょうぞく) その舞のみに使われる装束のことです。 ・裲襠(りょうとう)装束 袍(ほう)の上から裲襠(りょうとう)を着ます。 袍(ほう) 裲襠装束では裲襠の下に着ます。 襲装束(かさねしょうぞく)や蛮絵装束(ばんえしょうぞく)と 異なり袖口を縛ります。 裲襠(りょうとう) 袍の上に着ます。 長方形の錦の中央にある穴に頭を入れて着る貫頭衣 (かんとうい)です。 胸と背にかかる布はお腹のあたりで帯(組紐)で結わ きます。 打球楽・狛鉾などは‘金襴(きんらん)べり‘の裲襠、 蘭陵王(らんりょうおう)・還城楽(げんじょうらく)などは ‘毛べり‘の裲襠です。 裲襠のことを婚礼衣装で用いたりする‘うちかけ‘とも いいますがここでいう裲襠はこれとは異なるものです。 このほか装束としては 冠が‘おいかけ‘の付いた‘巻纓(けん えい)‘の‘末額冠(まっこうかん)‘です。 ・末額冠(まっこうかん) 上記、五常楽の蛮絵装束で書いた無紋冠の下側(額から 後頭部のはちまわりグルッと)に朱色の絹をまいたもの です。 ・巻纓(けんえい) 冠の纓(後ろのピラピラした細長いもの)を内側に巻いて 留めたものです。 ・おいかけ 冠の横、頬にあたる所に馬の毛で扇形に作ったブラシの ようなものです。 狛鉾(こまぼこ)の装束は萌黄色と空色を基調とした美しい 装束です。 五色に彩色した船棹(ふなざお): 船を漕ぐ様子を舞いにしているのですが 写真で見ると (あまり良くは 見えないのですけれど・・・) 朱・白・薄い緑・濃い緑・青の五色が段々模様に塗られて いるかなり長い(ベランダ用物干し竿くらいあるでしょうか・・) 棹です。 :垂髪(すいはつ) 結い上げずに垂らしたままの髪や背後に長く垂れた髪のことをいい ます。 :釵子(さいし) 平安時代の女房装束で 表立った時に着るような晴の装束で 宝髻 (ほうけい)という髪上げの時に使ったかんざしのことです。 宝髻というのは 仏像の菩薩様が頭の上に丸く結んでいるあのオダン ゴ髪のことです。 で、ここで黒と釈迦の二人は垂髪(すいはつ)・サラサラヘアーを その まま上げて頭の上でオダンゴに結んで釵子(さいし)で留めたということ です。 :唐装束(からしょうぞく) 調べておりましたところ この唐装束‘平安時代の女房装束・十二単‘ と‘雅楽の襲装束(かさねしょうぞく)・常の装束‘のどちらも別名として 唐装束と言うのです。 で、とりあえず各々どのような物か先に書きます。 ・平安時代の女房装束・十二単(正装時) 宮中に仕える女房の服で 儀式など晴れやかな場に着用 しました。 張袴(はりばかま): 固く張りのある生地で作った袴で紅や緋などの色です。 単(ひとえ): 一枚仕立ての裄(ゆき)や身丈が長い 装束の下に着る 下着または中着で袴の上からはおります。 (小袖肌着を下着として着ている時は中着になります。) 五つ衣(いつつぎぬ): 単の上に重ねて着る袿(うちぎ)のことで 五枚に限っては いない様です。 打衣(うちぎぬ): 布を木槌で打って柔らかくし艶を出した衣のことです。 袿の上に着ます。 表着(うわぎ): 打衣の上に着る美しい袿です。 唐衣(からぎぬ): 十二単の一番上に着る丈の短い衣です。 袖が短くできているので(袖幅が短く)下に襲て着ている 袿が袖口の所で順に見える様になります。 前面の丈は袖丈の長さで(かかしの様に腕を横に広げた 時に振袖の様になった袖の一番下の所の長さ)です。 後ろは前よりさらに短く腰のあたりまでです。 襟を折り返して表着の上に着ます。 裳(も)とともに着用します。 裳(も): 唐衣を着た後その上から後方・腰から下にかなり長く ひきずる様なかんじで付けます。(長〜いエプロンを 後ろに腰から下にひきずる様に付けたかんじです。) 襞飾り(ひだかざり)があってフンワリした感じになります。 以上が正装の時の衣装です。 普段は生袴(きのはかま)で唐衣と裳を省略しました。 ・雅楽の襲装束・常の装束 襲装束(かさねしょうぞく)はもっとも一般的で常の装束(つね のしょうぞく)とも言われ 唐から伝わったので唐装束とも 言われます。 左右の平舞に用いられます。 鳥甲(とりかぶと): 鳳凰の頭をかたどった形で和紙の厚紙で金襴(きんらん) などを使って作ってあります。 袍(ほう): 見た目に一番上に着ます。 半臂(はんぴ): 袍と下襲の間に着ます。袖がなくて丈の短い 鬼太郎の チャンチャンコの様な形です。 忘緒(わすれお): 半臂の腰を結ぶ飾り紐(ひも)のことで 幅約10センチ・ 長さ約3メートル60センチほどの薄地の織物でできていて 半臂を着たときに折りたたんで左腰の前に 半臂を結ぶ 小紐にかけてたらす飾りの紐です。 下襲(したがさね): 一番下に着ます。 この上に半臂・袍の順に着ていきます。 指貫(さしきぬ): 幅がゆったりとしていて裾に括り緒(くくりお)のある袴です。 着る時には裾口を足首で締めます。 赤大口(あかのおおくち): 赤色で袴の下(内側)に着ます。ズボン下といった感じで 蛮絵装束(ばんえしょうぞく)など他の装束でも着用します。 襲装束(かさねしょうぞく)では上記の指貫の下に着ます。 金帯・銀帯(きんたい・ぎんたい): 金帯は左舞 銀帯は右舞で使う 一番上から袍を腰で締め るものです。 踏懸(ふがけ): 赤地の大和錦で作った脚絆(きゃはん)のことです。 (脚絆というのは すねを保護するために巻きつけて ひも で結んだ布などのことです。) 絲鞋(しかい): 履物で足袋の上に履きます。 以上 長々と(ほんとに!)調べた事を書いてまいりましたけれど 読み 進めながらイメージしたものと いろいろ調べてみた事が どうも重なっ てこないのです。 黒(くろ)と釈迦は 五常楽(ごじょうらく)や狛鉾(こまぼこ)を舞うのに 雅楽の舞で用いる蛮絵装束(ばんえしょうぞく)や裲襠(りょうとう)装束 をそのつど着替えていたとは思えなかったりするのです。 だって 後白河院を待たせて 裏でセッセと着替えているのはなんか おかしな感じです。 雅楽の装束を着るのは ケッコウ大変なようなのです。 それとも 黒と釈迦は共に同じ舞をしていないのでしょうか? それぞれの曲を 各々が舞ったのでしょうか? 五常楽(ごじょうらく)は四人舞なので 黒または釈迦プラスほのか三人 とか そんな感じなのでしょうか・・・? さらに元の文には 唐装束(からしょうぞく)と書いてあるのですが唐装 束は雅楽の装束としては 上記の蛮絵装束や裲襠装束とは違う説明が されているのです。 で、ここでいう唐装束は雅楽の常の装束(つねのしょうぞく)とも違うよう なきがするのです・・・。 少なくとも この三つの装束は全て頭に冠や甲をかぶるわけなので これでは垂髪(すいはつ)を宝髻(ほうけい)に結って釵子(さいし)で とめることはできません。 それに この装束 確かに美しいのですが女性が着用して後白河院 が言ったように ‘歌舞音曲を奏する菩薩の袖振る舞も このようであったのだろうと 思われるほど美しいものでありました。‘ とはチョッと思えないのです。 なんと言うのか・・・どれもやはり男性用というのか・・・ゴツイ感じが するのです。 強装束(こわしょうぞく)と言うのでしょうかね・・・。 で、十二単の唐装束(からしょうぞく)が一番あっている装束かと思う わけですが 今ある雅楽のただ一つの女舞‘五節舞(ごせちのまい)を 見ると この十二単でどうやって五色に彩色した船棹(ふなざお)を操る のだろうかと 思ってしまったりするのです。 私は 唯一たった一度だけ 雅楽の舞を見た事があってそれが五節舞 でした。 舞うというより 檜扇(ひおうぎ)を持った手を上げたり下げたり あるい は前や横にすり足でゆ〜っくり移動したりするのです。 確かに あれだけ着ていたらそう簡単に動けはしないのだろうな〜 と、見ていて思ったものでした。 そうすると どんな舞姿であったのか・・・。 黒も釈迦も厳島神社の内侍(ないし)なので もともと巫女が神楽舞 などを舞う時は巫女装束で千早を羽織るわけなので これに近いの ではないのかしらと思うのです。 巫女装束というのは 緋袴に白衣(袴の中に着込めます)その上から 千早(ちはや:白衣の上に羽織るように着ます。前が膝より少し上 後ろ が前の丈より長くて膝の後ろくらいです。脇が縫っていなくて袖丈は前と 同じくらいです。)をふわっと着るのです。 神楽舞などの時は 髪はそのまま上に上げて天冠(てんかん:金属製の 輪の前面・額のところに飾りのある輪冠)や釵子(さいし)をつけていま す。 これはマッタク私の勝手なイメージではあるのですが もし十二単の ような装束であったとしても正装時の衣装よりかなり軽めで唐衣など も薄手の布であったのではないかと思うのです。 袴と小袖を着たところまでは巫女装束の白衣を着たところまでと あまり 見た目かわりません。 それなので千早の代わりに薄手の単・袿(うちぎ)・唐衣(からぎぬ)・裳 (も)を それほど多くない枚数で ふわっと着る感じではなかったでしょ うか・・・。 あるいは‘からぎぬ‘ではなくて‘からころも(袖が大きく丈も長い合わせ の深い衣装です。)‘を羽織ったのかもしれません。 こちらの方が絵になりそうな気もします・・・。 ただ袴が長袴であったかは疑問です。 巫女装束の袴は長くはありませんが 十二単の袴は長袴です。 でも、長袴で五常楽(ごじょうらく)や狛鉾(こまぼこ)を舞うのは辛いよう な気がします・・・。 どちらの雅楽の舞でも着用される装束の袴は長くはありませんし・・・。 でも・・・長袴でないと足先が見えるんですよね・・・。(なんかバランス悪 いような感じもするのでした。) ふわっと薄手なのは‘菩薩の袖振る舞も‘と書いてあるので そこから イメージしました。 宝髻(ほうけい)というのがどんな髪型であるのか知りたくて 菩薩像の 写真を見たのですが菩薩様はたいてい薄手のふわっと・さらっとした衣 を着ていらっしゃるのです。 天女の羽衣の感じでしょうか。 どちらにしても あまりボテボテした動きにくい重い装束ではなかった様 に思うのですけれど・・・。 萎装束(なえしょうぞく:糊を使わず柔らかな仕立てにした装束です。)の 感じであったと思うのです。 しかしながら 今回どれも‘これだ!‘と思える装束が 頭に浮かびま せん。(-_-#) かなりクヤシイ感じなのですけれど やはり私としては巫女装束で柔らか いつくりのふわっとした美しい織りか絵(と言うのかしら)の入った千早 または唐衣(からころも)で 髪を上げて飾りのある釵子(さいし)で留め て 春風に舞うイメージなのです。 やはり雅楽の舞を知らないからなのでしょうね・・・。 ・太政入道・清盛 太政入道(だじょうにゅうどう)というのは 太政大臣で出家した人のこと です。 ここに書かれている太政入道は清盛のことです。 ・正真正銘・本当の巫女 この頃の巫女は 遊女(あそび)や傀儡子(くぐつ)などの女芸人に近い 人たちが多かったので この巫女はそうでない本当の(何か神託や予言 などが言えるといったことなのでしょう・・・)巫女であるということです。 ・「‘我に願う事は・・・・・と申されております。」 巫女が後白河院に話した事は 元の文では巫女がそのまま自分の意と して話しているように読めるのですが ここは神託を伝えているので 主語に‘神仏は‘として読みました。 ここで厳島は神社であるのに ‘極楽往生を願うこと‘(元の文は:後世 のことを申すこそ)と神託にあったり 私の読みで主語を‘神仏‘としたの は 本地垂迹(ほんちすいじゃく)の考え方からです。 熊野参詣の話しで 16・17・18話に注釈してあるのですが この頃は 神様は仏様の仮の姿であるので 神社でも仏様がいらっしゃって神様と 仏様は同じお方でございました。 この後 何度も巫女は後白河院に‘今様を聞きたい‘と言うのですけれ ど これももちろん巫女の言葉ではなく 神仏の意によって巫女が言っ た事なので 今様を聞きたがっているのは神様・仏様であるわけです。 (まあ・・・本当の巫女様も後白河院の今様は聞きたいと 思われたかもしれません けれど・・・。) ・ ・・・四大声聞(しだいしゃうもん) いかばかり 喜び 身よりも余るらん 我らは後世(ごせ)のほとけぞと たしかに聞きつる今日なれば・・・ 歌詞集巻第二の法文歌の内法華経二十八品一一五首の 授記品四首85歌 この今様歌は‘15 延寿(えんじゅ)のこと‘で延寿が後白河院に歌って います。 ここで後白河院が この今様歌を歌ったのは巫女が神仏の言葉として ‘極楽往生を願えば叶えられる‘と告げた厳島神社の祭神の意を受けて のことです。 後白河院は来世に極楽往生を願っているので その願いが神仏に聞き とどけられたことを喜んでの歌いでございましょう。 ・‘私は心の内で極楽往生だけを・・・‘以下最後まで 後白河院が やたらと物騒がしい現世で自らが主権者である事に 何か 恐れる様な事があったのでしょうか? 好きである今様の歌いはだんだん来世・極楽往生の願いを込めた読経 の いろあいを濃くしていきます。 確かに後白河院の最後は 潔い大往生であったそうですけれど。 厳島参詣は後白河院四十八歳の頃です。 ・今回もマタマタ注釈が長くなってしまいました。 すみません・・・。 しかし、雅楽のことがほとんどわからないうえに 行き付けの図書館で借り られた本が少ししかなかったので(こんなにわからないのなら検索してよそ から貸し出してもらえばよかったと後悔しております・・) なかなか先に進まなくて さらに 舞を見る事ができないので‘絵‘が浮か んできません。困りました・・・。 さっそく チケットサイトで雅楽を検索してみたら あるんですね! 雅楽の公演がケッコウ近くで 数はあまり多くはないですけれど行けそうな 感じなのです。 なんとかチャンスをつくって一度見に行きたいと思っております。 舞が見たいので 眠たくならぬよう体調を整えて行きましょう!! チョッと後ろ髪ではあるのですけれど 今回はとりあえずこれでUPいたし ましょう! 参考資料 雅楽への招待 小学館 日本の伝統芸能1 雅楽 小峰書店 日本の伝統芸能はおもしろい4 岩崎書店 郷土資料事典 広島県 人文社 |