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平安時代後半から約二百年くらい 広い階層で歌われた当時流行って いた歌です。 そのころの 今っぽい歌と言うことのようです。 当時の‘遊女(あそび)‘や‘傀儡子(くぐつ)‘などの芸人によって宴席 などで歌われ広がっていったそうで、当時の貴族には催馬楽(さいばら) や漢詩の朗詠なんかより ガンガン派手派手な今様がウケタのだそうで す。 まあ でも今聞けば眠くなるような曲調かもしれませんけれど・・・。 でも、残念な事にこの今様がどんな風に歌われたのかが伝わっていない のです。 歌い方に関しては想像するしかないみたいです。 ただ、その詩の部分から 今様は七五調だけでなく八五調 さらに句体 も長短さまざまで かなり自由に歌われていたらしいのです。 それで、七五調四句一章の歌詞のものを狭い意味で‘只の今様‘‘常の 今様‘と言うのです。 まあ、もちろん当時は録音などと言うものはないわけで 音 実際に歌 としては何もわからないのです。 ところが、この今様 まじめに歌うとなると結構 練習など大変なようで 後白河院は声明(しょうみょう:経典や陀羅尼などに高下抑揚の曲節を付け 歌う)の練習をしているので 発声などはかなりイケたようなのですが、院は 少年時代から‘今様大好き人間‘であったと口伝集巻十に書いてあるのだ けれど、その練習もはんぱじゃなくて 名のある女芸人 歌い人を連れてき て今様を教わったのでした。 まあ、そのかいあって 今様の第一人者となったわけです。 でも、あの時代 今様の第一人者になってどうするんでしょう? 世情はメチャクチャ不安定だったろうに・・・。 院が今様なんかにハマってるから、不安定になったのかしら?・・・。 でも、誰が何をしようと 時の流れは変わらないわけで 後白河院は不安 定な時代であったからこそ 信じる信仰と同じ根底を持つと思っていた今様 の歌いを極めようとしたのかしら・・・。 それとも、ただのモノズキ・・・。 さて、今までの中で何度か出てきた‘遊女(あそび)‘や‘傀儡子(くぐつ)‘ などの芸人について書きます。 ‘遊女(あそび)‘は下記の(1)‘傀儡子(くぐつ)‘は下記の(2)と言うこと になりましょうか。 (1)芸妓・遊女のこと。元々歌を歌うことを中心とした‘遊び‘をする 芸妓の称で 俗に言われる遊女(ゆうじょ)とは少し異なる。 (2)平安時代以降、歌などに合わせて操り人形を操ったり、今様を 歌ったりして各地を漂泊した芸人。 ここで、‘遊女(あそび)‘は遊女(ゆうじょ)とは少し違って 生業に体を売る と言う事よりも 歌 今様を歌うことであったそうです。 だから この場合、‘遊女(あそび)‘も‘傀儡子(くぐつ)‘も共に自分の持つ 芸として今様を歌う歌い人であったわけです。 後白河院の所に来ていた女芸人は、上記の様な人たちであったようで す。 それでもやはり そこはいろいろで芸で生きられる人もいれば そうでない 人もいたようです。 さらには、そうでない人のほうがたぶん多かったのだろうし、だから今様の 歌はそんな流れ流れての人たちによって歌われた 想い歌でもあったのか もしれません。 口伝集巻十に登場する歌い人の乙前(おとまえ)は傀儡女(くぐつめ:傀儡 子の女の人)であったのですが、歌の名人の目井(めい)に養われ 歌を教 わったとあります。 たぶん目井も同じ様な出であったかもしれません。 ただ、どちらも 歌 今様を歌うことを生業にできるほどの歌上手でありま した。 その歌い方 声の出し方 曲調などなど 今で言う ‘型‘ の様なものが あって、それを伝承として 伝え 伝えられ している様なのです。 なんと言うのでしょうか・・・○○流宗家とか家元とか そんな感じです。 それで、後白河院は乙前から 今様の歌いを教わり その伝わる歌い方 を受け継ぎ 自ら 宗家となったのでした。 と・・・宗家とまではどこにも書いてないのですが・・・。 でも、それほどの 今様歌い人の乙前に対する院の弟子としての気持ち 今様を上手に歌いたいと思う気持ちが伝わるのでした。 それに・・・伝承の流れとしては やっぱり後白河院は宗家の流れである ように思います。 さらに・・・わたくし的には口伝集巻十の乙前は けっこーカッコいーと思っ たりしてしまうのでした。(ミーハーです・・・。) と、以上の様なところが 今様についてなのですが 歌なのにその音を 再現できないので、まあ・・・しかたないかなーというところです。 さて次は 平安末期 世情の不安定な時期に何を思ったか今様にハマっ て芸人に歌を教わり 歌詞集十巻 口伝集十巻 合計二十巻にもおよぶ 梁塵秘抄を撰述した後白河院とはどんな人なのでしょうか? |