八月に思ったこと             もくじへ戻る トップページへ戻る

 今年の夏はとにかく暑くて 私は完全に体調を崩しておりました。
 しかし、夏休みで子供たちが家に居るので 体の調子がイマヒトツであっ
ても ゴロゴロ寝ているわけにもいかず しかたなしなしグダグダと掃除
やら 洗濯やらしていたのでした。
 そんな、暑い夏のある日のことです。
 正確には八月十五日のことです。
 学習塾の宿題をするために 子供たち三人が二階の勉強部屋に集まり
ました。
 私が三人の勉強を 一度に見なくてはならないので 我が家ではなるべく
三人が同じ時間に 勉強タイムをスタートさせます。(終わる時間は違いま
すけれど・・・。)
 お兄ちゃんとお姉ちゃんは もう小学生なので机があります。
 末っ子の次男は まだ 幼中なので 折りたたみの小さいテーブルで宿題
をやります。
 三人がそれぞれ机に向かって 宿題のプリントなどを出して準備が整った
ところで プリントに日付を書きます。
 娘が
 「今日は何日だっけ?」
 と、聞きました。
 私は 他の子の様子を見ながら
 「今日は八月の十五日だよ。」
 と、答えました。
 三人は 私の言った日付をプリントに書き込みます。
 で、私は特別何か意図があったわけでは なかったのですけれど なんと
なくこんなことを質問してみました。
 「ねえ・・・今日、何の日だか知ってる?」
 三人の手が止まり 顔を上げてこちらを見ます。
 考えています。
 この時 私は
 (あれ、知らないのか・・・。)
 と、子供たちが八月十五日が 何の日であるのか知らないのだということ
に気が付きました。
 さすがに 幼中の次男は知らないでしょうけれど 小学生のお兄ちゃんと
お姉ちゃんは知っているのではないかと思っていました。
 一年生のお姉ちゃんは知らなくても せめて 三年生のお兄ちゃんは 学
校で何か話を聞いているのではないかと思っていたのです。
 さんざん考えて お姉ちゃんが
 「誰かのお誕生日でしょう。」
 と、答えました。
 すると 末っ子次男が
 「きっと スイミングに行くんだ。」
 と、言います。
 「違うよ。」
 と、お兄ちゃん。
 「今日は 誰の誕生日でもないし スイミングは昨日行ったから今日は
行かないよ。他の習い事にいく日でもないし・・・。おかあちゃんが どこかへ
出かける日だったかな?」
 「今、もう三時過ぎてるのに どこへ行くんだい。千駄ヶ谷も東銀座もこの
時間じゃ 行くわけないだろうに。」
 と、私が言うと 三人とも考え込んで 黙ってしまいました。
 「何にも思いつかない? お兄ちゃんは 八月十五日の事どこかで聞いた
りしたことないの?」
 「どこで? 聞いた事ないと思うけどな・・・。忘れちゃったのかな・・・。」
 「学校で 先生が何か話してくれなかった?」
 お兄ちゃんは‘え〜?‘という顔をしています。
 「学校 休みだし・・・。」
 (そうか、学校は休みだね・・・。)
 「ねえ、おかあちゃん 何の日なのか教えてよ。」
 お姉ちゃんが言いました。
 「知らないんじゃ 教えてあげなきゃね。今日は‘終戦記念日‘だよ。お爺
ちゃんは‘敗戦記念日‘って言うけどね。日本が戦争に負けて戦争が終わっ
た日だよ。」
 「!、?、・・・・・・・。」
 私が こう答えた時の 子供たち三人の表情を 忘れる事ができません。
 ‘ハトが豆鉄砲クラッタ様な顔‘とでも言うのでしょうか。
 返す言葉を失ったといった感じなのです。
 マッタク 本当にゼンゼン 予想していなかった 考えてもみないような答
えであったのでしょう。
 自分たちとは ‘マッタク ゼンゼン 関係ない‘ と 思っていた様な答え
であったのでした。
 しかし、戦争はそんなに遠い話しではないのです。
 この子供たちと同じくらいの歳の子供が 世界のあちこちで 今も戦火に
まき込まれているのですから。

 私が‘戦争‘という言葉を意識したのは たぶん小学校の五年生か六年生
の頃ではないかと思います。
 六年生の時に同じクラスの男の子が 靖国神社の話しをしていたのも覚
えています。
 ただ、おそらく 五・六年生になる前から‘戦争‘という言葉は その意味は
わからなくても ‘してはいけない悲惨な事だ‘というイメージと共に繰り返し
聞かされていた様に思うのです。
 どこで そういった話を聞いたのか覚えてはいません。
 と、言うより どこででも 例えば八月頃になると‘戦争‘の話というものが 
聞けたような気がします。
 テレビでも 今よりもっと多くの情報が流されては いなかったでしょうか。
 なんだか 八月頃のテレビ番組は‘戦争‘に関係あるものばかりだった
ような気がするくらいなのです。
 この頃の‘戦争‘に関する私の情報源は テレビと子供新聞ぐらいであっ
たはずなのですが  それでも八月頃にはかなり多くの‘戦争‘に関する話
を 見聞きした様に思うのです。
 ちなみに、小中高と社会の時間に歴史を勉強しましたけれど 一度も先の
戦争・‘第二次世界大戦‘までたどり着くことはありませんでした。
 歴史の授業は‘アウストラロピテクス‘あたりからはじまって‘縄文‘だの
‘弥生‘だのを やたらと丁寧に時間を掛けて勉強して 三学期の終わり頃
に‘明治維新‘、もう少し進んだとして‘日露戦争‘あたりまでで 時間がなく
なって終わりになってしまうのです。
 どの先生も三学期の終わりに
 「ここから先は 時間がないので 各自で教科書を読んでおいて下さい。」
 と、言いました。
 ですから、もちろん学期末のテスト範囲にも入ることはないのです。
 テスト範囲でない所をわざわざ読んだりするものでしょうか・・・?
 他の人はどうであるかは わかりませんけれど 少なくとも私それから私と
同じクラスで同じ先生に教わった生徒は 歴史の授業で‘第二次世界大戦‘
のことは教えられてはいないのでした。
 そんな学校の中で二回だけ 今でも覚えている事があります。
 どちらも小学校の時のことです。

 一回目は 夏休み前の終業式の時 朝礼台の上に立たれた校長先生が
前に並んで立っている生徒たちに 夏休みの過ごし方などを話された後 
‘夏休み中の八月十五日は終戦記念日であるので この日の正午に皆で
黙祷してください‘と言った様な内容の話をされました。
 これだけでは 今でも覚えていたかどうかわかりませんが 私が忘れなか
ったのは 終業式の後クラスに戻る途中で 他の先生方が校長先生の話に
ついて‘あの様な話はしない方がいい‘と言っているのを 聞いたからなの
です。
 学年ははっきり覚えていません。
 でも たぶん三・四年生の頃だったと思います。
 私は家に帰ってこの話をしました。
 もちろん、後から聞いた先生方の話もしました。
 「いい校長先生だね。八月十五日によし子も黙祷すればいいじゃないか。
高校野球見てればサイレンが鳴って みんな黙祷するからいっしょにすれ
ばいいんだよ。」
 父は、こう言いました。
 「でも 他の先生は あんな話はしない方がいいって言ってたよ。」
 私がこう言うと 父は
 「そんなのは ほっとけばいいんだ。校長先生が言ったことの方が いい
事だよ。」
 と、言ったのでした。
 実は この後 私がどうしたのか 父の言うとおり高校野球を見たのか 
見ないまでも八月十五日に校長先生がおっしゃったように黙祷したのか 
覚えていないのです・・・。
 ただ子供心に‘学校ってなんか変‘と、いった感じを持ったのは確かです。

 二回目は たぶん六年生の時ではないかと思います。
 やはり 夏休み前でした。
 七月の初め頃に 担任の先生が教室の後ろに一枚のポスターを貼りまし
た。
 ポスター全体が白黒写真で なんと書いてあったのか覚えていないのです
が 確か大きな赤い文字が書いてあったと思います。
 何で、書いてある文字を覚えていないかといえば ポスターそのものであ
る白黒写真が あまりにも当時の私には(おそらく、他の子供たちにも)衝
撃的であったからだと思います。
 そのポスター写真は 原爆投下後の広島の写真で 反戦のポスターであ
りました。
 そこに写っていたのは 焼け崩れた原爆ドームとその周りで亡くなった方
達の焼けこげた遺体でした。
 はじめに このポスターを担任の先生が教室に貼った時 ‘怖い‘と言って
泣く子がいたくらいなのです。
 先生は
 「なんでこんな写真をポスターにするのかしら・・・。」
 と、言いました。
 後ろのほうから見ていた私は
 「先生、これは何の写真なの?」
 と、聞きました。
 「中野、これは原爆の写真だよ。広島に原爆が落されてこんなひどい事に
なってしまったから もう戦争は止めましょうと言う事なのよ。それにしても、
小学校の教室に貼るポスターにしては ちょっと怖すぎるかもしれないわ
ね。」
 この担任の先生は 後で知ったのですが この時まだ小さいお子さんがい
て子育て真っ最中のお母さん先生でありました。
 それからしばらくの間━夏休みが始まる前の日まで━クラスの女の子た
ちは後のロッカーに荷物を取りに行く時 一人で行かないようにしていまし
た。
 そうして みんなポスターを遠巻きに見ているのでした。
 夏休み前の終業式の日です。
 大掃除をしている時 先生がそのポスターを壁から取りました。
 それに気付いた子供が
 「先生、それはがすの。」
 と、聞くと 別の子が
 「それ怖かったから はがしてよかった。」
 と、言いました。
 先生はポスターをクルクルと丸めながら
 「夏休みだから 他のポスターや皆の絵とか習字も取るからね。」
 それから ほかの交通安全のポスターとか絵とか習字などを はがして
絵や習字はそれぞれの子供に渡したのでした。
 ひととおりの事が終わって みんなが席に着いたとき 私は教卓の上に
縦長く丸められた 何本かのポスターが置いてあるのに気付きました。
 「先生、そこにあるポスターどうするの?」
 背が低くていつも前の方の席に座っていたので この時も座ったままチョ
ッと身を乗り出すようにして先生に聞きました。
 「どうするって、いらないから捨てるよ。」
 と、先生は言います。
 「みんな?」
 「そうよ。」
 「どこに?」
 先生は少し笑って‘おかしな事聞くね‘といった感じで
 「そりゃ ゴミ箱に決まってるでしょ。」
 と、答えてくれました。
 「原爆の写真は まだ少ししか貼ってないよ。」
 と、私が言うと 少し間があってから
 「怖がる子もいるからね。でも、まだ一ヵ月も貼ってないね。そうだ・・・まだ
破けたりしていないから 欲しい人がいたらあげようか。」
 何気なく言います。
 よく学期末に 鉛筆やら消しゴムやら手元にあるチョッとした文具などを 
‘がんばりました賞‘などといって子供たちにくれたりするノリでありました。
 「先生、私がもらいたい。」
 私は すぐに言いました。
 先生は このポスターが欲しいなどと言う生徒はいないだろうと思っていた
様で 私がもらうと言ったのでかなり(見ていてはっきりわかるくらい)驚いて
いました。
 でも とりあえず
 「他に 欲しい子はいない?」
 と、みんなに聞いてから
 「いないよね・・・。中野、ほんとに持って帰るの?途中で捨てたりしないで
よ・・・。やっぱり 先生がまとめて処分しようかな。」
 チョロット言ってしまった‘あげようか‘に後悔しているようでした。
 でも、私はどうしても自分で持って帰りたかったので 頑張って言いまし
た。
 「先生、くれるって言ったじゃない。途中で捨てたりしないよ。ゴミ箱に捨て
たら かわいそうだと思ったから ちょうだいって言ったんだから。」
 いつもヘラヘラの私が 大真面目で突っ掛かる様に言うので 先生の顔
が ちょっと険しくなりました。
 「中野、あんた何て言った。誰がかわいそうだって?」
 先生は私の言いたいことが分からない様子で 少し強く聞き返しました。
 私が‘かわいそう‘と言ったのを 聞きとがめた様でした。
 「あの写真に写ってた人たち 好きであんなふうに なったんじゃないんで
しょ。それなのに怖がられて もういらないからってゴミ箱に捨てられちゃっ
たらかわいそうじゃない。」
 半ベソで私は言いました。
 もう胸がいっぱいで これ以上何か言ったら ポロポロ涙が出そうでした。
 この後の事は覚えていません。
 ただ 私は終業式の日 通信簿の他に絵やら習字やらと一緒に反戦のポ
スターを家に持って帰りました。
 家に帰った私は 通信簿や絵や習字と一緒に‘先生からもらった‘と言っ
てポスターも母に見せました。
 ポスターを見た母の第一声は
 「なんで こんなものもらってきたの。」
 でした。
 私は
 「いいじゃん。」
 と、言ったままポスターを丸めて輪ゴムでとめると 自分の部屋の洋服ダンスの上に置き それ以上は何も言いませんでした。
 母は この反戦のポスターをあまり気に入ってくれていなかったので しつ
こく‘どうするんだ‘と聞きました。
 でも‘どうするんだ‘と 聞かれても 私だってどうしたらいいのかなんて 
わかりはしなかったのです。
 ただ とにかく教室のゴミ箱に他のゴミと一緒に捨ててしまうのが嫌なので
持って帰って来ただけなのです。
 夜になって父が帰って来ると 母は早速ポスターの事を話しました。
 変なポスターを学校からもらって来て ‘どうするのか‘聞いても何も答え
ずに 自分の部屋に片付けてしまったと。
 父は話を聞いて
 「よし子、どんなポスターなんだ?」
 と、聞きました。
 私が部屋からポスターを持ってくると それをクルクル広げて見ています。
 「原爆の写真だ。よし子、お父さん これと同じ写真持ってるぞ。戦争の時
の写真を集めた写真集の中に同じ写真があるよ。よし子が どうしてこれを
もらって来たのかは お父さん聞かないけれど 絶対に粗末にするな。」
 父はそう言って またクルクルとポスターを丸めます。
 私が
 「夏休みになるから はがして捨てるって言うからもらって来たの。」
 と、言うと横から母が
 「そのまま捨ててくればよかったのに。」
 と言いました。
 「ゴミ箱に ゴミと一緒に捨てるんだよ。かわいそうじゃない。」
 母に言い返す私を見て 父が‘へ〜’という顔をして
 「よし子、‘かわいそう‘って ここに写ってる人たちのことか。」
 と、聞きました。
 「そうだよ。その人たち好きでそうなったわけじゃないもん。それなのに
捨てちゃうなんてひどいじゃん。もしそれが きれいなお花だったり かわい
い犬とか猫だったら みんな喜んで見るんじゃないの。ひどい事だよ。」
 やはり 半ベソになりました。
 母は呆れて言います。
 「なに言ってるの。変な子。」
 「お母さん、そんなことはないんだよ。」
 と、父が言います。
 「俺も写真集でこの写真見たけど やっぱり ひどい事だと思ったし かわ
いそうにとも思ったよ。このポスターを作った人だって‘戦争は悲惨な事だ‘
と伝えたかったんだろうから よし子にはそれが伝わったって事じゃない
の。で、よし子はそのポスターどうするんだ?」
 父に聞かれても どうしたらいいのかわからなくて
 「わかんないの。」
 と答えました。
 ‘やれやれ‘と言った感じで
 「お盆の時 送り火で送ってあげたら。」
 と、母が言ってくれました。
 私の家には仏様がいるので 毎年八月のお盆に 迎え火送り火をたき
ます。
 この年のお盆には 馬や牛の飾り物と一緒に反戦のポスターも送り火に
入れたのでした。
 二学期が始まってすぐに 担任の先生が私にポスターの事を聞きに来ま
した。
 やはり 気になっていたようで 私がお盆の送り火で仏様と一緒に送った
と話したら ‘いい事を思いついたね‘と、言ってホッとした様子でした。
 確かに、これはマッタクの自己満足であったのかもしれません。
 お盆だろうが 送り火だろうが 結局はお線香や飾り物などと共に燃やし
て処分したわけですから。
 でも、それでもこの時 私はポスターを丸めてゴミ箱に捨てることはできな
かったのです。

 私が小学生の頃 今からもう三十数年も前です。
 でも、この頃はまだ 多くの家庭の中に‘戦争の陰‘を持ち続けている人が
いたような気がします。
 私は親子三人の核家族で育ちました。
 私の両親は戦争中 子供でした。
 子供でしたが 実際に戦時中を体験して 戦争を覚えている歳です。
 父は 一年早く生まれているか 戦争が終わるのが一年遅かったら 戦
場へ行ったかも知れないとよく言っています。
 それほどの年齢であったわけなので 子供であっても戦争の悲惨な状況
や その頃の戦時教育の歪を よく覚えているのです。
 母は三月に東京に住んでいた叔父を亡くしています。
 叔父は後になっても見つかることなく 葬儀の時お墓に入れたのは いつ
も叔父がかぶっていた帽子一つであったそうです。
 また 私の祖父母の年代の人たちが まだまだ現役でおりました。
 今よりも 同居している世帯は多かったとも思います。
 この‘戦争の陰‘を持った人たちと 何気ない毎日の生活を繰り返していく
中で 私は‘戦争は絶対にしてはいけない悲惨な事である‘ということを
知ったように思うのです。
 そうして この家庭の中にある‘戦争の陰‘は 子供が外で 例えば学校
などで教えられた‘戦争‘を その子供の背丈で消化できるように 手助け
する とても大事なものであるように思います。
 知っている者から教えられる事は とても大きいことです。
 最近は 家庭の中に‘戦争の陰‘はあまり見られなくなりました。
 たぶん私の世代が 親が戦争を少しでも体験しているという最後の世代
ではないでしょうか。
 一世代後の団塊の世代は 自分で戦争を体験してはおりません。
 なので 核家族が多くなった団塊の世代を親に持つ 今 子育て真っ最中
のお父さん・お母さんは 家庭の中にある‘戦争の陰‘を知る人は少ないか
も知れません。
 核家族が多い今 さらに‘日本が戦争をしたこと‘を伝える家族を持つの
は 難しいことでありましょう。
 家庭の中から‘戦争の陰‘がなくなっていくのは 家庭の中で戦争を考え
ることが 遠のいているのと同じ事のような気がします。
 そんなことは 今の生活の中で さほど差し迫ったことではないと 別に今
考えなくてもいい事だと 感じてしまうようになってきているのではないでしょ
うか。
 ‘戦争は よその国のことで 自分たちには関係ない‘と そんなふうに
戦争を遠くに考えてしまうようになってはいないでしょうか。
 今だって 戦争の陰はこんなに近くに いつまでも離れることなく 付きまと
っているのに。
 でも、だからこそ今までよりも もっと‘日本も戦争をしたのだ‘そうして 
‘こんなに悲惨なことであったのだ‘と伝えなくてはいけないのでしょう。
 より 特別に、声高に、‘日本は戦争をしたのだ。そして多くの人たちが悲
しい思いを今でも持ち続けているのだ。‘と、大人たちがシャカリキになって 
子供に伝えなければいけないのだと思うのです。
 今やらなければ 今だからこそ 伝えなければならない事であると思うの
です。

 長男・小学三年生は最近国語の教材で‘おこり地蔵‘とか‘ガラスのうさぎ‘
とかを読んだり ビデオで‘火垂るの墓‘を観たりした後 私に‘あれは、戦
争の話しなのか‘と聞いてくるようになりました。
 私は
 「そうだよ。‘おこり地蔵‘は広島の原爆の話し、‘ガラスのうさぎ‘は三月
の東京大空襲の話し、‘火垂るの墓‘は神戸の話し。どれもみんな戦争の
話しだよ。」
 と、答えるだけなのですけれど 彼は彼なりに何か思うようで ‘戦争はし
ない方がいいかもしれない。‘とか‘早く止めればいいのに‘とか言っていま
した。
 じつは‘火垂るの墓‘のビデオを買ってきたのは父でした。
 もちろん 子供たちに観せるために買って来たのです。
 今の我が家で‘火垂るの墓‘のビデオを買って来れるのは父だけかもしれ
ません。
 そうして
 「戦時中はみんなこんなもんだった・・・。」
 と、ポツッと言うのです。
 私は以前観た事があって ストーリーを知っていて泣けてしまって観ていら
れないのがわかっていたので とても購入できないでいたのです。(子供た
ちが観ている時も 私は一緒には観ませんでした。観れませんでした。我が
子と重なってしまってとても観ていられないのです。)
 父の書棚には近代文学全集などと一緒に アジア関係の本や戦争に関す
る本・写真集などが並んでいます。
 今年の夏は‘南の島に雪が降る‘と‘それでも私は戦争に反対します。‘の
二冊が増えていました。
 私も 後で読ませてもらうつもりでおります。
 隠してはいけない事は隠さない 伝えなくてはいけない事は伝える。
 ‘戦争の陰‘を持つ父は声高に反戦を訴える事はありません。
 でも、その意思は伝わります。
 ‘戦争の陰‘を持たない私が今できる一番小さな でもたぶん大事な戦争
反対の行動は家庭の中で ‘戦争はしてはいけないこと‘ を考えることかと
思うのです。
 おそらく私の思うところは 父の様に言わなくても通じる事は ないと思い
ます。
 自分の思うところとして 子供たちに伝えていかなければ通じないと思うの
です。
 私は戦争を体験しているわけではありません。
 ですから 父や母とは その‘思いの重さ‘がまったく違うように感じます。
 でも だからそのぶん多く声高に‘戦争はしない‘を言おうと思います。
 子供たちも そろそろ私が始めて‘戦争‘という言葉を意識した年齢に
なります。
 たぶんこの頃感じた‘戦争‘への意識は大人になっても覚えていると思い
ます。
 来年の八月十五日、また子供たちに ‘今日は何の日か知ってる?‘ と
聞いてみるつもりです。
 それは私自身に問うことでもあるからです。






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